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2009年12月 5日 (土)

陸軍少年戦車兵学校 若獅子神社

陸軍少年戦車兵学校・若獅子神社は私の出身地にほど近いのだが、つい最近までその存在を知らなかった。一般にもそれほど知られていないと思う。昨年訪問時の写真をみつけたので紹介したい。

静岡県富士宮市上井手、観光名所の白糸の滝や朝霧高原にほど近い。BKライディングスクールで有名(?)な白糸スピードランドからも2kmくらいの至近にある。富士宮やきそばの3麺産者のひとつ「曽我めん」もこの近く。

富士山方面へのバイクツーリングルートで有名な国道139号線からほんの少し脇に入ったところにこのような場所があったとは。

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戦没者600余名を祀る若獅子神社


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熾烈をきわめたサイパンの戦闘にて40余名の少年戦車兵とともに勇猛奮戦するも大破し土中に埋もれること30年、有志のご尽力により帰国をはたした「帰還戦車」こと九七式中戦車(通称チハ車)。各地で戦死した戦車兵への祈りを込め、大破した姿で屋外展示されている。無数の弾痕が激戦をものがたる。(注:写真撮影の後、屋根がつくられたようです)

前身は千葉陸軍戦車学校・少年生徒隊。昭和17年に当地に設立。延べ4000名の少年が教育を受けた。



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九七式中戦車は旧陸軍の主力大型戦車であるが、そもそも日本陸軍における戦車の用法は対戦車戦闘でなく歩兵支援が主目的であるため、貧弱な装甲と火力が弱点であり、大戦後半に投入された米軍M4中戦車との戦闘においては非力に過ぎるものであった。

戦車を騎兵の延長ととらえ、戦車軍団による機動力の発揮を目的として装甲と火力を重視した欧米との違いが如実に現れたといえる。このあたりは米パットン将軍の評伝などに詳しい。

また、満州などの極寒地でディーゼルエンジンの低信頼性への苦慮があったことは、自身が戦車小隊長として学徒出陣した司馬遼太郎の著書に詳述されている。


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戦後、この地に残された多数の校舎・病院などは復興に活用され、酪農開拓農協、小中学校、国立病院などの平和目的に供された。

祖国の礎となられた戦没者のご冥福をあらためて祈ります。合掌。


若獅子神社公式ホームページ


詳細地図を表示


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コメント

●餃子さん

なるほど彼我の火力の差はそれほどあったんですか、それは勝負にならないですね。

若獅子神社のHPにも記述ありますが、装備の強化が望めない以上、兵員の錬度向上以外に解決策なしとの冷酷無残な方針のもと戦い敗れた兵士が無念です。

お兄様がキュウマル式を操縦しておられたとは!90式は世界的にみても評価が高いそうですね。誇らしい立派な装備です。お値段も高いですけどね。

投稿: ケビン | 2009年12月 5日 (土) 21時08分

知らなかった。こんな神社があるんですね。

シャーマンの75mm砲は1000m離れた

所から97式中戦車の装甲を軽々と打ち抜いた

そうですが、97式の砲弾はその半分の距離

から発射されても跳ね返されたそうですね。

国力や兵器に対する考え方の違いはあるにせよ

国の為に劣った戦車で勝ち目の無い戦をしなければ

ならなかった旧日本軍の戦車兵は、さぞ悔しかった

でしょうね...

余談ですがウチの兄は昔富士の戦車教導隊に居て

90式の操縦してましたよ。

投稿: 餃子 | 2009年12月 5日 (土) 09時13分

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